ミック・シューマッハ:「父親は私に言った:何でもやるからには楽しめ。」

ミハエル・シューマッハは、ドイツの元F1ドライバーである。ドイツ人初のF1ドライバーズチャンピョン。最多優勝91回、チャンピオン獲得7度などF1の主な個人記録を更新した。2006年に一度引退したが2010年に復帰し、2012年に再度現役を退いている。6歳年下の実弟ラルフ・シューマッハはウィリアムズF1などで6勝を挙げた元F1ドライバーであり、息子のミック・シューマッハも現役のレーシングドライバーである。1999年生まれのミック・シューマッハは言わずと知れた7度(1994年~1995年、2000年~2004年)のワールドチャンピオン、ミハエル・シューマッハを父に持つサラブレッド。幼少期から両親に連れられてサーキットに姿を見せていたこともあり、必然的にモータースポーツの世界を志すようになる。2008年よりカートレースでキャリアをスタートさせることになるが、シューマッハというあまりにも著名な姓を持つことから、母親の旧姓を使用しミック・ベッシュという登録名で腕を磨いていたという。ミックはカートレースでトップレベルの争いを繰り広げる。そして2015年からはADAC・F4選手権選手権に参戦し、本格的にフォーミュラーカーでのキャリアを歩み始めた。シングルシーターへの挑戦とともに、本名であるミック・シューマッハの登録名に直すことに。それ以降はより大きなプレッシャーを浴びながらも才能を示し、さらなる成長を遂ていった。今回はそのミック・シューマッハと父親ミハエル・シューマッハとの物語を綴る。

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ミハエル・シューマッハ

ミハエル・シューマッハは1969年1月3日、ドイツノルトライン、ヴェストファーレン州ケルン近郊のフュルト・ヘルミュールハイムで生まれる。4歳の時、煉瓦職人の父から贈られた“原動機付きペダルカー”が車との出会いである。夢中で路上を走らせていたミハエルが電柱に衝突したため、心配した父が近所のカート場に連れて行き“本格的なレーシングカート”と遭遇した。1983年に国内カートライセンスを取得し、1984年にはドイツ・ジュニア・カートチャンピオン、1987年にはドイツとヨーロッパのカートチャンピオンとなった。中学卒業後は自動車販売店に入社し、整備士の資格を取得する。1988年、ジュニアフォーミュラにステップアップし、フォーミュラ・ケーニッヒとフォーミュラ・フォードに参戦。ドイツF3選手権に参戦するWTSレーシングのオーナー、ウィリー・ウェーバーに見初められ、マネージメント契約を結ぶ。ドイツF3では1989年に2勝を挙げ、1990年には5勝してチャンピオンとなった。同年のマカオGPでは本命と見られていたイギリスF3王者ミカ・ハッキネンを下して優勝した。その1週間後、日本の富士スピードウェイで初開催されたインターF3リーグにも参戦し、F3の国際レースで2週連続優勝した。

1990年、メルセデス・ベンツが立ち上げた若手育成プロジェクトにカール・ヴェンドリンガー、ハインツ=ハルラルドとともに選出された。3名は世界プロトタイプカー のザウバー・メルセデスチームに加わり、ベテランのヨッヘン・マスのパートナーとして交代で参戦した。シューマッハは4戦出場してドライバーズ選手権5位、最終戦のメキシコで初優勝した。その後もスポーツカー世界選手権に8戦出場し、ル・マン24時間レースでは5位入賞。ワークス最後のレースとなった日本ではヴェンドリンガーと組んで優勝した。ドライバーズ選手権は9位。これらの好走がTWR・ジャガーチームの目に留まり、同年のベネトン移籍に繋がることになる。また、この2年間にはドイツツーリングカー選手権にも数戦出場した。メルセデスはF1にワークス参戦を予定しており、シューマッハも起用される予定だったが、メルセデスの計画修正(ザウバーにエンジンのみ供給)によりこの時は実現しなかった。

 

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F1での軌跡

ジョーダン・ベネトン在籍時期には、当初全日本F3000スポット参戦後、そのまま残りのレース、及び翌年1992年シーズンも全日本F3000へ参戦することを予定していたが、1991年8月、ベルトラン・がショーの刑事事件をきっかけにして、メルセデスが用意した持参金をジョーダンに持ち込み、第11戦ベルギーGPでガショーの代役として同チームからF1に初参戦した。デビュー後も華々しく活躍を続け、その後メルセデスエンジンを搭載するマクラーレンへの移籍が噂されたが、長くタイトルから見放されている名門フェラーリへの移籍を選択した。その後も活躍を続け勝利を重ねっていったが中国GPの優勝が通算91勝目、F1での最後の勝利となった。2007年からは、アドバイザーという役職に立場を変えてフェラーリのF1に関わった。2009年12月23日、メルセデス・グランプリから4シーズンぶりにF1に復帰することが発表され、復帰を果たすことになった。二度目の引退レースとなった最終戦ブラジルGPではレース序盤のパンクにより一時最後尾に落ちるものの、雨天のなか力強い走りを披露。このレースでドライバーズタイトル3連覇を決めたベッテルに続く7位入賞を果たした。レース開始直前に無線で「一緒に仕事をしてきた全てのメカニックやエンジニア、そして僕たちをフォローしてテレビを見てくれている世界中の人たちにもありがとうと伝えたい。素晴らしい日々と思い出を本当にありがとう」と語り引退をした。